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盛岡家庭裁判所 昭和58年(家)961号 審判

申立人 金澤啓子

相手方 志村亮子 外3名

被相続人 長池登

主文

1  申立人の寄与分を1213万円と定める。

2  被相続人の遺産を次のとおり分割する。

(1)  別紙物件目録記載(1)、(2)の不動産は申立人の単独取得とする。

(2)  申立人は、相手方らに対し、各209万2000円及びこれに対する本件審判確定の日の翌日から支払ずみまで年5分の割合による金員を支払え。

3  手続費用中、鑑定人○○○に支払つた100万円は各当事者の平等負担とする。

理由

一件記録に基づく当裁判所の事実上及び法律上の判断は、次のとおりである。

1  相続の開始

被相続人は、昭和56年9月11日午後3時18分、岩手県紫波郡○○村○○○×○○××番地の×社団医療法人○○○○○○○病院において死亡し、同日、同人について相続が開始した。

2  相続人及び法定相続分

被相続人は、大正8年10月25日永池大次郎(明治21年3月19日生、以下「大次郎」という)と婚姻し、同人との間に長女の相手方志村亮子(大正8年10月19日生)、長男の相手方永池登(大正10年10月19日生)、二男永池久夫、二女の相手方永池国子(大正15年2月17日生)、三女の相手方宮川寿子(昭和6年4月8日生)及び四女の申立人金澤啓子(昭和9年4月3日生)の2男4女(以下、本件各当事者については、申立人金澤啓子を「申立人」、各相手方を「相手方亮子、相手方登、相手方国子、相手方寿子」という)を儲けたが、二男永池久夫は昭和19年11月29日戦死し、夫大次郎は昭和33年3月31日死亡し、申立人及び相手方らが生存しており、これら5人が共同相続人であることが認められる。また、適式の遺言はない。

したがつて、本件相続における相続人らの法定相続分は各5分の1ずつである。

3  遺産の範囲及びその評価額

本件相続開始当時、被相続人名義の別紙物件目録(1)、(2)の不動産(以下、「本件遺産」といい、各不動産については、「(1)の土地」、「(2)の建物」という)が存在し、かつ現在も存在する。他に分割の対象となるべき不動産、動産、現金、預貯金等の存在を明認するに足る証拠資料はない。

被相続人は、夫大次郎の死亡後の昭和34年4月29日(1)の土地を購入し、昭和35年9月22日(1)の土地上に(2)の建物を新築し、以後昭和56年4月2日前記○○○○病院に入院するまでの間、申立人夫婦及びその長女と同居して居住した。そして被相続人入院後は、申立人が(2)の建物に居住し、占有使用しており、本件遺産の固定資産税や都市計画税その他管理費用等を申立人が負担し、支払つている。

鑑定人○○○の鑑定結果によれば、自用建物及びその敷地としての昭和59年6月1日現在の評価は、(1)の土地の価額2146万円、(2)の建物の価額113万円で、その合計2259万円が本件遺産の総評価額であつたと認めることができ、国土庁の地価調査の結果によると、岩手県内の住宅地の地価はこのところ安定を続けているとのことであり、その後上記評価が変動し、現在においてこの評価額を変更しなければ公平を失するような特段の事情は証拠上認められないから、審判時においても上記評価額を維持するに足るものと認められるのを相当とする。

なお、申立人は、被相続人との間に暗黙の使用貸借契約があり、居住権が存している旨主張するが、なるほど上記認定のように、申立人は(2)の建物に被相続人と同居生活をしていたのであり、被相続人との間に賃貸借契約は締結されなかつたものの、親族関係にもとづく使用貸借として本件遺産に居住して使用することを許され、被相続人死亡後は公租公課や管理費用などを負担してきたことが認められる。しかし、申立人は、昭和56年4月それまで同居していた申立人の夫金澤仁が○○○○省○○研究センター○○○○部○○○○○○研究室長として、茨城県内のいわゆる筑波学園都市に転勤となり、単身赴任して以来、被相続人の世話のため申立人が居残つて夫と別居生活を続けていたのであり、独り娘の良子(昭和35年7月5日生)も東京都内の大学に進学し、同都内に居住しているのであるから、世話すべき被相続人が死亡した後は、申立人には本件遺産に居住を継続すべき必要性も正当性もなくなつたものと認められ、その地位を保護すべき理由はない。

4  申立人の寄与分

(1)  申立人は、母である被相続人と父大次郎との間の6人同胞の末子(四女)として生まれ、昭和27年3月○○○○高等学校卒業後は両親の許で家事手伝などをして過していたが、父大次郎が永年勤務した○○大学○○部教授の職を70歳で退職し、昭和33年3月31日死亡した後は、被相続人との二人暮しとなつた。

(2)  被相続人は、夫と死別して間もなく満60歳を超えたが、経済的には遺族年金、共済年金(昭和56年当時で月額約23万円)を受給しており、日常生活に困るようなことはなかつたものの、そのころから消化障害、頭重感、不眠等の愁訴で通院するようになり、その後、脳循環障害、慢性胃炎、末梢循環障害、高血圧症などの症状で年とともに病院通いが頻繁となった。被相続人には、前記のとおり大次郎との間に申立人のほか相手方ら4名の子があつたが、相手方らはいずれも独立し、郷里を離れて生活していたため、被相続人は、申立人が結婚した後も申立人夫婦と同居して、その世話になりたいと考え、大次郎の退職金などを資金として、昭和34年4月29日(1)の土地を購入し、居宅新築にとりかかつた。

(3)  申立人は、昭和34年10月22日、○○○○省○○○○○○○に勤務していた金澤仁と婚姻して同省の宿舎に入居し、一時被相続人の許を離れて生活したが、昭和35年9月22日(2)の建物が完成し、夫仁、長女良子(昭和35年7月5日生)とともに(2)の建物に移住し、被相続人と同居生活をするようになった。

申立人夫婦は、被相続人と同居中、家賃の支払いこそしなかつたが、ガス、灯油、水道、電気代等の共同生活費や襖の貼替え、屋根瓦修理、家屋周囲の塗装、毎年1日植木職人を頼んでの庭木の手入れなどの営繕費用の支払いを負担していた。

(4)  こうして、被相続人と申立人夫婦らとの間では、さしたる問題もなく共同生活が続けられてきたが、被相続人は、昭和46年(73歳)ころから痴呆が目立つようになり、家人が目を離すと外出してバイパスに飛び出したり、物が盗まれるなどという被害的言動が多くなり、年とともに次第に痴呆が高度となり、些細なことで興奮して家人に乱暴したり、更にガス栓を回す、ストーブの灯油を撒き散らす、水道の水を出し放しにする、布団に水をかける、薬を一度に全部飲んでしまうなどの行動を繰り返し、ついには食事や用便も人の手を借りなければならない状態となり、申立人は四六時中被相続人から目が離せず、昼間は常に被相続人の傍に付き添い、また、夜間起き出して徘徊するようになつてからは、申立人夫婦及び長女良子の3人で介護のため不寝番をしなければならない状態となつた。

(5)  前記のとおり、昭和56年4月、申立人の夫仁が茨城県の筑波学園都市に転勤することとなり、また長女良子が大学に進学して東京都内に居住することとなつたため、申立人が盛岡市に残つて被相続人を独りで看護せざるを得なくなつたが、申立人は、独りで被相続人を世話してゆくことに不安を感じ、○○村の前記○○○○病院で神経科医の診断を受けさせたところ、被相続人の病名は脳血管障害性痴呆、夜間せん妄、高血圧症、心肥大であり、痴呆の程度が高いため自宅療養は無理であるとの診断がなされ、同月2日被相続人を同病院に入院させた。

(6)  被相続人は、入院後同病院で治療を受けていたが、昭和56年9月11日急性肺炎を併発して死亡した。申立人は、被相続人の入院中の5か月間は毎日タクシーで病院に通い、被相続人に付添い、身の回りの世話をしたり、話相手などをした。

以上の事実が認められ、これに反する相手方らの裁判所調査官に対する供述記載部分は措信しない。

以上の認定事実によれば、申立人は、大次郎死亡後、20年余にわたり病弱で老齢の被相続人と同居して扶養し、殊に被相続人の痴呆が高じた昭和46年以降その死亡に至るまでの10年間は常に被相続人に付添つて療養看護を要する状態となり、申立人がこれに当つてきたのであり、少くとも後半の10年間の療養看護は、親族間の扶養義務に基づく一般的な寄与の程度を遥かに超えたものというべく、被相続人は他人を付添婦として雇つた場合支払うべき費用の支払を免がれ、相続財産の減少を免がれたことは明らかであり、従つて申立人には、被相続人の療養看護の方法により被相続人の財産の維持につき特別の寄与があつたものというべきである。

そこで、申立人の寄与分の額について算定するに、申立人代理人提出の調査報告書によると、盛岡看護婦・家政婦紹介所扱いの昭和58年当時の協定料金は、基本料金1日4500円で、それに泊り込みの時間外手当が加わると1日6750円であることが認められ、被相続人が昭和46年以降の10年間職業付添婦を雇つたとすると、6750円×365日×10年の計算式により、支払うべき総額は2463万7500円となる。しかし、被相続人の場合、いつ頃から夜間せん妄の症状が現われ、夜間の付添看護が必要となつたのかについては、証拠上明らかではないが、申立人提出の神経科医師○○○○作成の診断書及び家庭裁判所調査官作成の調査報告書中の申立人の供述記載部分によれば、被相続人の痴呆は次第に高度になつたものであり、常時監視していないと危険な状態となり、申立人及び家族が交替で不寝番をしなければならなくなったのは「最後の頃」であつたと認められるので、10年間全部について夜間の看護を要したものとしてなした上記計算は相当でなく、夜間の看護が必要となつたのは、相手方国子が盛岡市から青森市の相手方亮子方に転居した昭和53年以降であるとするのが相当である。してみると、申立人の療養看護により被相続人が支払を免れた総額は、

(4500円×365日×6年)+(6750円×365日×4年)

の計算式により1971万円となる。そして、申立人は職業付添婦ではないことや昭和46年から6年間くらいは被相続人の療養看護の傍、家族のための一般家事労働をなす余裕もあつたものと認められることを考慮すると、申立人の療養看護による寄与分の額は上記金額の60パーセント程度、すなわち1182万6000円と認めるのが妥当である。

また、申立人夫婦が(2)の建物についての営繕費や庭木の手入れ費用を負担してきたことは前記認定のとおりであり、これにより本件遺産の維持に特別の寄与があつたことは明らかであり、その額は、申立人提出の領収書によると総計30万4000円ほどであり、その余は資料がなく算定できない。

以上のとおりで、申立人の寄与分の総額は1213万円である。

なお、申立人は、20年余にわたる被相続人との同居生活中、同人の生活のため年額約40万円の扶養料を負担したことを考慮し、本件遺産全部を申立人に分与してもらいたい旨希望するが、申立人のなした被相続人に対する扶養の清算については、他の扶養義務者である相手方らと協議するなどし、別途解決すべきことがらである。

また、申立人は、被相続人の5か月間の入院中、おむつ代等として12万3263円を○○○○病院に支払い、見舞、看護のため、毎日タクシーで往復し出費しているが、盛岡○○郵便局長の回答によると、申立人は同郵便局から被相続人の年金として昭和56年10月19日30万4666円、同月20日43万4075円の各支払を受けているのであるから、寄与分額の算定につき考慮する必要はない。

5  各相続人の現実の取得分

本件においては、遺贈その他持戻の対象とすべき生前贈与は認められないから、各相続人の現実の取得分は、次のとおりである。

申立人  1422万2000円

相手方ら 各209万2000円

(計算式)

申立人 (2259万円-1213万円)×1/5+1213万円 = 1422万2000円

相手方ら (2259万円-1213万円)×1/5 = 209万2000円

6  分割の方法

(1)  各相続人の意向

本件遺産の分割方法についての各相続人の意向は、それぞれの立場から各様の希望を述べるが、つまるところ相手方国子を除く相続人らは、本件遺産を申立人が取得し、取得分を超過した額を代償金として申立人が相手方らに支払う方法を採るほかはないとの意向であるのに対し、相手方国子はあくまでも現物分割で、しかもその6割、少くとも5割を相手方国子が取得したいとの意向である。

(2)  本件遺産の分割方法についての当裁判所の判断

相手方国子は、被相続人の財産の形成、維持につき何ら特段の寄与はなく、その法定相続分5分の1を超えて2分の1以上を分与すべき根拠は全くなく、上記各相続人の意向及び申立人が永年にわたり本件遺産に居住してきたこと、その他本件における一切の事情を総合考慮すると、本件遺産については、そのすべてを申立人の単独取得とするのが相当である。

そうすると、申立人の取得額は2259万円、相手方らはいずれも零となるから、申立人については、その現実の取得額を836万8000円超過し、相手方らについては、相手方らがそれぞれ取得すべき額209万2000円まるまる不足することになる。そこで、申立人は、その代償として相手方ら各自に対し、それぞれ209万2000円及びこれに対する本審判確定の日の翌日から支払ずみまで民事法定利率年5分の割合による金員を支払うべきである。

なお、鑑定人○○○に支払つた鑑定費用100万円については、各当事者平等負担とする。

よつて、主文のとおり審判する。

(家事審判官 草野安次)

別紙物件目録〈省略〉

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